難易度 ★★★☆☆

噛み合はぬ楽しみ


現代語でも読めます

この作品は、現代語版作成中です。

噛み合はぬ楽しみ

夜の座敷にござる。

敷いた布団の上に胡坐をかいた男が一人、両の手を前へ開いて何やら語つてをる。向かひには、髷を結うた年老いた男が畳へ直に坐し、眉を寄せてござる。

言葉は交はされてをるが、噛み合うてはをらぬ様子にて候。

御題

【作問修行】噛み合はぬ楽しみ

ご先祖が、夢枕に立つた。
近ごろの世の移り変はりを、ご説明申し上げる。

「はて、それは町中で拵へてはならぬ物ぞ」
「店で商ふとな。お触れが出てをる」
「庭でともすとは何事か。川口ならば格別なれど」

ご先祖は何を咎めてをられる。

ヒント ── 三つは、別々のことにあらず

ご先祖が咎めてをられるは三つ。拵へる/商ふ/ともす。

一つだけを取り出せば、灯の類にも煙の類にも当てはまり申さう。されどご先祖は三つを並べ、しかもただ一つの物について申してござる。

足場は最後の一句にござる ── 「川口ならば格別なれど」。

町中では禁じられ、されどその一所でのみ許された物。さういふお触れが、江戸の町には実際にござつた。

答えを見る

答へは 花火 にござる。

ご先祖の言寛文五年の御触書指すところ
町中で拵へてはならぬ町中にて花火拵り製造
店で商ふとな商売堅く仕間敷候販売
庭でともすとは何事か町中にて一切立て申間敷候事点火

一つの触書を、三つに割つてござつた

三つの咎めは、別々の御法度にはござらぬ。寛文五年〔一六六五〕の町触、その一文を三つに割つたものにて候。

さらに遡れば慶安元年〔一六四八〕、江戸の町には斯様な触れが出てござる ──

町中にて鼠火りうせい(流星)その外花火の類仕間敷事、但川口にては格別の事

「但川口にては格別」。この一句が、三つを一つへ束ねる鍵にござつた。灯篭も煙草も火鉢も、町中で拵へ商ふことはでき申す。されど川口でのみ許される謂れは、いづれにも無い。

三つが揃うて初めて、答へは一つに落ち申す。

★ 解いた御仁への、二つの土産話

一、お触れが幾度も出たといふことは、守られてをらなんだといふことにござる。

慶安元年より後、同じ趣旨の禁令は繰り返し出され申した。禁じても禁じても、御触れを破つてまで興じる者が後を絶たなんだゆゑにござる。

さらに可笑しきは、禁じた側の話にて候。寛文九年〔一六六九〕の七月と八月、四代将軍徳川家綱は江戸城二ノ丸の庭園にてこれを見物してござる。町人には庭でともすなと申しながら、上様は御庭で御覧になつてをられた。

ご先祖が咎めてをられるその同じ世に、咎める側もまた楽しんでござつた。

二、江戸には、言ひ方が三つござつた。

御触書は「立てる」と申し、『守貞謾稿』は「焚く」と記し、そして『東都歳事記』は「ともす」と書いてござる ── 「今夜より花火をともす」。

この『東都歳事記』、天保九年〔一八三八〕の刊にて、編みしは斎藤月岑。神田雉子町の名主の家に生まれた人にござる。町の世話役が、町の一年を書き留めた書にて候。

御題の一句に「ともす」を選びしは、この縁ゆゑにござる。

別解のこと

語扱ひ
煙火受け申す
手持ち花火/玩具花火/ねずみ花火受け申す
火薬/鉄砲受け申さぬ
灯篭/煙草/火鉢受け申さぬ

手持ちの類を受けるは、「川口にては格別」が打ち上げに限られぬゆゑにござる。慶安元年の触書は「鼠火」──地を走る手持ちの類──と「流星」──上がる類──を並べて禁じ、その上で但し書きを置いてござる。但し書きは花火の類すべてに掛かる。手持ちもまた、川口でならば許され申した。

寛文五年の「一切立て申間敷候事」もまた、類を分けてはをり申さぬ。

おまけ

【おまけ謎】

「川口ならば格別」と申された、その川口の話にござる。

享保十七年、西国は虫に食はれ、江戸に病が流行つた。
明くる年の夏、大川に水神祭が立ち、舟が出た。
神へ祈つたは、病の去ることなり。

いま一つ、舟の上で営まれた物がござる。何にござる。

おまけのヒント ── 祈りの向く先

神へ向かうたは、病の去ること。

されど前の年、西国の田は虫に食はれ、江戸には病が流行り申した。失はれたものが、多うござつた年にて候。

舟の上の営みは、生きてゐる者のためだけのものにはござらぬ。もう一つの向き先が、そこにござつた。

答えを見る

答へは 弔ひ にござる。

享保十八年〔一七三三〕夏、大川に水神祭が立ち申した。神へ祈つたは悪疫退散、すなはち病の去ること。そしていま一つ、前年来の死者を弔ふ営みが、同じ舟の上で行はれてござる。

供養・慰霊・鎮魂・回向・施餓鬼 ── いづれの語にても受け申す。

★ 川開きの話、三つ

一、通説にては、八代将軍吉宗が慰霊と悪疫退散を願うて水神祭を行ひ、そこで上がつたものが両国の川開きの起こりとされてござる。

二、されどこの通説、国立国会図書館そのものが「諸説あり」と断つてござる。否定の論考として、福澤徹三「論考 享保十八年隅田川川開開始説の形成過程」を名で挙げてをり申す。

起こりの話そのものに、出来上がつた過程があるといふことにござる。由来と申すものは、後の世が形を整へることがござれば。

三、禁令ゆゑに栄えた商ひもござつた。隅田川の外では禁じられてをりましたゆゑ、売り手は舟に積み、屋形船の間を漕ぎ回つて商ひ申した。この頃売られてゐたは、多くが手持ちの玩具の類にござる。

禁が一所に集めた ── さう申してもよろしうござらう。


ご先祖が近ごろの世を咎めてをられるは、これで二度目にござる。一度目は「噛み合はぬ盆」にて、ご先祖は三つの食ひ違ひを見てをられた。此度は三つの御法度を咎めてをられる。

同じ物を前にして、一方は法度と申し、一方は楽しみと申す。三百年の隔たりとは、さういふものにござりましょう。

されど御触書が幾度も出たといふ一事だけは、動かせ申さぬ。禁じられてなほ、江戸の町人はこれを手放さなんだ。ご先祖が咎めてをられるその声の裏には、咎めねばならぬほど盛んであつた景色が透けてござる。

次なる謎、また改めて。

夜の座敷です。

敷いた布団の上にあぐらをかいた男が一人、両手を前に開いて何か語っています。向かいには、髷を結った年老いた男が畳に直接座り、眉を寄せています。

言葉は交わされているのに、噛み合っていない様子です。

御題

【作問修行】噛み合はぬ楽しみ

ご先祖が、夢枕に立った。
近ごろの世の移り変わりを、ご説明申し上げる。

「はて、それは町中で拵えてはならぬ物ぞ」
「店で商うとな。お触れが出ておる」
「庭でともすとは何事か。川口ならば格別なれど」

ご先祖は何を咎めておられる。

ヒント ── 三つは、別々のことではありません

ご先祖が咎めているのは三つ。拵える/商う/ともす。

一つだけを取り出せば、灯りの類にも煙の類にも当てはまるでしょう。でもご先祖は三つを並べ、しかもたった一つの物について言っています。

足場は最後の一句です ── 「川口ならば格別なれど」。

町中では禁じられ、けれどその一か所でだけ許された物。そういうお触れが、江戸の町には実際にありました。

答えを見る

答えは 花火 です。

ご先祖の言寛文五年の御触書指しているもの
町中で拵えてはならぬ町中にて花火拵り製造
店で商うとな商売堅く仕間敷候販売
庭でともすとは何事か町中にて一切立て申間敷候事点火

一つの触書を、三つに割ってあった

三つの咎めは、別々の御法度ではありません。寛文五年〔一六六五〕の町触、その一文を三つに割ったものです。

さらに遡ると慶安元年〔一六四八〕、江戸の町にはこんな触れが出ています ──

町中にて鼠火りうせい(流星)その外花火の類仕間敷事、但川口にては格別の事

「但川口にては格別」。この一句が、三つを一つに束ねる鍵でした。灯篭も煙草も火鉢も、町中で拵えて商うことはできます。でも川口でだけ許される理由は、どれにもありません。

三つが揃ってはじめて、答えは一つに落ちます。

★ 解いた方への、二つの土産話

一、お触れが何度も出たということは、守られていなかったということです。

慶安元年より後、同じ趣旨の禁令は繰り返し出されました。禁じても禁じても、御触れを破ってまで興じる者が後を絶たなかったからです。

さらにおかしいのは、禁じた側の話です。寛文九年〔一六六九〕の七月と八月、四代将軍徳川家綱は江戸城二ノ丸の庭園でこれを見物しています。町人には庭でともすなと言いながら、上様は御庭で御覧になっていました。

ご先祖が咎めているその同じ世で、咎める側もまた楽しんでいたわけです。

二、江戸には、言い方が三つありました。

御触書は「立てる」と言い、『守貞謾稿』は「焚く」と記し、そして『東都歳事記』は「ともす」と書いています ── 「今夜より花火をともす」。

この『東都歳事記』、天保九年〔一八三八〕の刊で、編んだのは斎藤月岑。神田雉子町の名主の家に生まれた人です。町の世話役が、町の一年を書き留めた本ということになります。

御題の一句に「ともす」を選んだのは、この縁があってのことでした。

別解のこと

語扱い
煙火受けます
手持ち花火/玩具花火/ねずみ花火受けます
火薬/鉄砲受けません
灯篭/煙草/火鉢受けません

手持ちの類を受けるのは、「川口にては格別」が打ち上げに限られないからです。慶安元年の触書は「鼠火」──地を走る手持ちの類──と「流星」──上がる類──を並べて禁じ、その上で但し書きを置いています。但し書きは花火の類すべてに掛かります。手持ちもまた、川口でなら許されていました。

寛文五年の「一切立て申間敷候事」も、類を分けてはいません。

おまけ

【おまけ謎】

「川口ならば格別」と申された、その川口の話にござる。

享保十七年、西国は虫に食はれ、江戸に病が流行つた。
明くる年の夏、大川に水神祭が立ち、舟が出た。
神へ祈つたは、病の去ることなり。

いま一つ、舟の上で営まれた物がござる。何にござる。

おまけのヒント ── 祈りの向く先

神へ向かったのは、病が去ること。

でも前の年、西国の田は虫に食われ、江戸には病が流行りました。失われたものが多かった年です。

舟の上の営みは、生きている者のためだけのものではありませんでした。もう一つの向き先が、そこにあります。

答えを見る

答えは 弔い です。

享保十八年〔一七三三〕の夏、大川に水神祭が立ちました。神に祈ったのは悪疫退散、つまり病が去ること。そしてもう一つ、前年来の死者を弔う営みが、同じ舟の上で行われています。

供養・慰霊・鎮魂・回向・施餓鬼 ── どの語でも受けます。

★ 川開きの話、三つ

一、通説では、八代将軍吉宗が慰霊と悪疫退散を願って水神祭を行い、そこで上がったものが両国の川開きの起こりとされています。

二、ところがこの通説、国立国会図書館そのものが「諸説あり」と断っています。否定の論考として、福澤徹三「論考 享保十八年隅田川川開開始説の形成過程」を名指しで挙げています。

起こりの話そのものに、出来上がった過程があるということです。由来というものは、後の世が形を整えることがありますから。

三、禁令ゆえに栄えた商いもありました。隅田川の外では禁じられていたので、売り手は舟に積み、屋形船の間を漕ぎ回って商いました。この頃売られていたのは、多くが手持ちの玩具の類です。

禁が一か所に集めた ── そう言ってもいいかもしれません。


ご先祖が近ごろの世を咎めるのは、これで二度目です。一度目は「噛み合はぬ盆」で、ご先祖は三つの食い違いを見ていました。今度は三つの御法度を咎めています。

同じ物を前にして、一方は法度と言い、一方は楽しみと言う。三百年の隔たりとは、そういうものなのでしょう。

ただ、御触書が何度も出たという一事だけは動かせません。禁じられてなお、江戸の町人はこれを手放しませんでした。ご先祖が咎めるその声の裏には、咎めなければならないほど盛んだった景色が透けています。

次の謎は、また改めて。

現代語でも読めます

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