巷に聞こゆる声
江戸の町の四つ辻、日の高い刻。
手前の右に、縞の着物の町人の男がひとり。耳の後ろへ手を添へ、目を細めて聞き入つてござる。その向かふでは、左の軒先、正面奥の角の店先、右の軒下に、二人連れが三組、向かひ合うて立ち話をしてをる。
男の耳に届くは、三つの話の切れ端のみ。絵はその景を描くばかりにて、手がかりは口上の言葉の内にござる。
御題
【作問修行】巷に聞こゆる声
辻に立てば、三つの話が耳に入り申す。
「歯の間を掃ふ、細き木を一本」
「手習ひに上がる前の、小さき子がをりましてな」
「今日は出かけねばならぬ、その訳が」三つとも、耳には一つの言葉にござる。
さて、何と申す。
手習ひに上がる前の子を、一語で
一つ目と三つ目は、今の暮らしにもそのまま在る言葉にござる。
留まりやすきは二つ目。「手習ひ」とは、寺子屋に上がつて読み書きを習ふこと。それより前の年頃の子を、二字の漢語で何と呼ぶか ── そこが決まれば、三つの話は一つの音に揃ひ申す。
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答へは ようじ にござる。
| 話 | 耳に入つた言葉 |
|---|---|
| 歯の間を掃ふ、細き木を一本 | 楊枝 |
| 手習ひに上がる前の、小さき子 | 幼児 |
| 今日は出かけねばならぬ、その訳 | 用事 |
三つの話はいづれも別の物を指しながら、辻の耳には同じ「ようじ」と聞こえてござつた。
書けば三つ、聞けば一つ
耳には一つの言葉なれど、江戸の筆は三つを書き分けてござる。
| 言葉 | 昔の仮名 |
|---|---|
| 楊枝 | やうじ |
| 幼児 | えうじ |
| 用事 | ようじ |
口上が「耳には一つ」と申して、「書けば一つ」とは申さなんだ所以にござる。辻に立つ男は耳で聞いてをるゆゑ、三つが一つに溶けてござつた。
なほ「幼児」は、古くは『太平記』にも見ゆる語にて、江戸の辻に聞こえて不思議はござらぬ。
★ 解いた御仁への、二つの土産話
一、細き木は、片端が房にござつた。
江戸の町人の使うた楊枝は、主に房楊枝と申す物にござる。木の片端を房にほぐして歯を磨き、反対の尖つた端で歯の間や舌を掃ふ。一本で、磨くと掃ふとを兼ねてござつた。
歯を磨く習ひが町人にまで広まつたは、江戸の初めの頃と申す。口上の「歯の間を掃ふ、細き木」は、江戸の辻の暮らしのままにござる。
二、書き分けは三つ、音は二つ。
上の仮名の表を見れば、三つの「ようじ」は三つの書きぶりを持つてござる。されど、昔の耳が聞き分けてゐたは二つにござつた。
古くは、同じ長く引く音でも、「アウ」の類と「オウ・エウ」の類とで口の開きが違ひ、前者を開音、後者を合音と申した。楊枝〔やうじ〕は開、幼児〔えうじ〕と用事〔ようじ〕は合。すなはち三つの書き分けのうち、音として分かれてゐたは二つのみにござる。
この区別は、関東では十七世紀の初めにはほとんど聞かれなくなつたと申す。江戸の町人の耳には、三つとも同じ音にござつた。口上の辻は、その溶けた後の辻にござる。
別解のこと
受ける:ようじ。楊枝・幼児・用事と漢字で書いて返すも、書き分けの揺れとして受け申す。
惜しい:なし。
受けぬ:つまようじ・くろもじ(一つ目のみ)/こども・おさなご・わらべ(二つ目のみ)/わけ・ごよう(三つ目のみ)
いづれも一つの話には当たり申すが、残る二つの話に入らぬ。三つすべてに入る音は、ただ一つにござる。
おまけ
翌る日、同じ辻にもう一問を掛け申した。
【おまけ謎】
先の辻の三つの話、耳には一つにござつた。
書けば三つとも、別の姿になり申す。時は下つて、海の向かふより、いま一つが渡つて参つた。
横へ並べて綴る、異国の書きもの。
これもまた、耳には先の三つと同じにござる。さて、四つ目は何と書く。
海の向かふは、服にも食にも付いてござる
錠は二つ。「海の向かふ」と「横へ並べて綴る書きもの」にござる。
一つ目は、今も服や食の頭に付けて「海の向かふから来た」と示すものにござる。二つ目は、書きものそのものを指すもの。二つを並べて、先の三つと同じ音に読めば、答へが立ち申す。
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答へは 洋字 にござる。
「洋字」とは西洋の文字、すなはちローマ字のこと。昔の仮名ではやうじと書き、一つ目の楊枝と同じ書きぶりにござる。
| 口上の言葉 | 立つ字 |
|---|---|
| 海の向かふより | 洋 |
| 横へ並べて綴る書きもの | 字 |
二つの錠が、紛れを落としてござる
「洋」の字の本の義はうみにござる。洋服・洋食の「洋」もまた、海の向かふを指してござる。この一字が、同じ音の幼時・要事を落とし申す。
「異国」「横へ並べて綴る」の二句は、同じ音の用字〔字の使ひ方〕を落とし申す。残るは、横文字そのものを指す洋字ただ一つにござる。
時は下つて ── 明治の論
洋字の語が世に立つたは、明治の初めにござる。西周が「洋字を以て国語を書するの論」を『明六雑誌』の第一号に載せたは、明治七年〔1874〕三月。国の言葉をローマ字で書かうといふ論にござつた。
口上の「時は下つて」は、洋字が江戸の辻では聞こえなんだ語であることを告げたものにござる。後には永井荷風の『つゆのあとさき』にも用ゐられてござる。
別解のこと
受ける:洋字。加へて、ローマ字の綴り〔yoji・youji など〕で書いて返すも受け申す。結びは「何と書く」。四つ目そのものが洋字ゆゑ、洋字で書いて返すは洒落として筋が通り申す。
受けぬ:ようじ(仮名では先の答へと別が付かぬ)/楊枝・幼児・用事(先の三つ)
★ 土産話 ── 楊枝屋の幼児の用事
西周の論をまとめた資料によれば、洋字を推した利の一つに、二十六字ゆゑ幼い子どもも読み書きできることが挙げられてござる。
洋字を説いた因の一つが、先の辻の二つ目の話、小さき子にござつた。四つの「ようじ」は、明治の論の中でも一つ所に寄つてござる。
さて ── 楊枝屋の幼児が、洋字で用事を書き付けたなら。
辻に立てば、耳には一つ。筆を執れば、三つにも四つにも分かれ申す。聞くと書くとで、言葉の数が変はる ── 此度の辻は、その境目に立つてござつた。
次なる謎、また改めて。
江戸の町の四つ辻、日の高い時刻。
手前の右に、縞の着物の町人の男がひとり。耳の後ろに手を添え、目を細めて聞き入っています。その向こうでは、左の軒先、正面奥の角の店先、右の軒下に、二人連れが三組、向かい合って立ち話をしている。
男の耳に届くのは、三つの話の切れ端だけ。絵はその景色を描いているだけで、手がかりは御題の言葉の中にあります。
御題
【作問修行】巷に聞こゆる声
辻に立つと、三つの話が耳に入ってきます。
「歯の間を掃く、細い木を一本」
「手習いに上がる前の、小さな子がおりましてね」
「今日は出かけなければならない、その訳が」三つとも、耳には一つの言葉です。
さて、何と言うでしょう。
手習いに上がる前の子を、一語で
一つ目と三つ目は、今の暮らしにもそのまま残っている言葉です。
つまずきやすいのは二つ目。「手習い」とは、寺子屋に上がって読み書きを習うこと。それより前の年頃の子を、二字の漢語で何と呼ぶか ── そこが決まれば、三つの話は一つの音に揃います。
答えを見る
答えは ようじ です。
| 話 | 耳に入った言葉 |
|---|---|
| 歯の間を掃く、細い木を一本 | 楊枝 |
| 手習いに上がる前の、小さな子 | 幼児 |
| 今日は出かけなければならない、その訳 | 用事 |
三つの話はどれも別のものを指しながら、辻の耳には同じ「ようじ」と聞こえていました。
書けば三つ、聞けば一つ
耳には一つの言葉でも、江戸の筆は三つを書き分けていました。
| 言葉 | 昔の仮名 |
|---|---|
| 楊枝 | やうじ |
| 幼児 | えうじ |
| 用事 | ようじ |
御題が「耳には一つ」と言って、「書けば一つ」とは言わなかったのはそのためです。辻に立つ男は耳で聞いているので、三つが一つに溶けていたのです。
なお「幼児」は、古くは『太平記』にも見える言葉で、江戸の辻に聞こえても不思議はありません。
★ 解いた方への、二つの土産話
一、細い木は、片端が房になっていました。
江戸の町人が使った楊枝は、主に房楊枝と呼ばれるものです。木の片端を房状にほぐして歯を磨き、反対側の尖った端で歯の間や舌を掃除する。一本で、磨くことと掃くことを兼ねていました。
歯を磨く習慣が町人にまで広まったのは、江戸の初めごろといわれます。御題の「歯の間を掃く、細い木」は、江戸の辻の暮らしそのままです。
二、書き分けは三つ、音は二つ。
上の仮名の表を見ると、三つの「ようじ」は三通りの書き方を持っています。けれど、昔の耳が聞き分けていたのは二つでした。
古くは、同じ長く伸ばす音でも、「アウ」の類と「オウ・エウ」の類とで口の開き方が違い、前者を開音、後者を合音と呼びました。楊枝〔やうじ〕は開、幼児〔えうじ〕と用事〔ようじ〕は合。つまり三つの書き分けのうち、音として分かれていたのは二つだけです。
この区別は、関東では十七世紀の初めにはほとんど聞かれなくなったといわれます。江戸の町人の耳には、三つとも同じ音でした。御題の辻は、その溶けた後の辻なのです。
別解について
正解とするもの:ようじ。楊枝・幼児・用事と漢字で書いて答えるのも、書き分けの揺れとして受けます。
惜しいもの:なし。
正解としないもの:つまようじ・くろもじ(一つ目だけ)/こども・おさなご・わらべ(二つ目だけ)/わけ・ごよう(三つ目だけ)
どれも一つの話には当てはまりますが、残る二つの話には入りません。三つすべてに入る音は、ただ一つです。
おまけ
翌日、同じ辻にもう一問を掛けました。
【おまけ謎】
先ほどの辻の三つの話、耳には一つでした。
書けば三つとも、別の姿になります。時代は下って、海の向こうから、もう一つが渡ってきました。
横に並べて綴る、異国の書きもの。
これもまた、耳には先の三つと同じです。さて、四つ目は何と書くでしょう。
海の向こうは、服にも食にも付いている
鍵は二つ。「海の向こう」と「横に並べて綴る書きもの」です。
一つ目は、今も服や食の頭に付けて「海の向こうから来た」と示すものです。二つ目は、書きものそのものを指すもの。二つを並べて、先の三つと同じ音で読めば、答えが立ちます。
答えを見る
答えは 洋字 です。
「洋字」とは西洋の文字、つまりローマ字のこと。昔の仮名ではやうじと書き、一つ目の楊枝と同じ書き方です。
| 御題の言葉 | 立つ字 |
|---|---|
| 海の向こうから | 洋 |
| 横に並べて綴る書きもの | 字 |
二つの鍵が、紛れを落としている
「洋」の字のもともとの意味はうみです。洋服・洋食の「洋」もまた、海の向こうを指しています。この一字が、同じ音の幼時・要事を落とします。
「異国」「横に並べて綴る」の二句は、同じ音の用字〔字の使い方〕を落とします。残るのは、横文字そのものを指す洋字ただ一つです。
時代は下って ── 明治の論
洋字という言葉が世に出たのは、明治の初めです。西周が「洋字を以て国語を書するの論」を『明六雑誌』の第一号に載せたのは、明治七年〔1874〕三月。国の言葉をローマ字で書こうという論でした。
御題の「時代は下って」は、洋字が江戸の辻では聞こえなかった言葉であることを告げています。のちには永井荷風の『つゆのあとさき』にも使われています。
別解について
正解とするもの:洋字。加えて、ローマ字の綴り〔yoji・youji など〕で書いて答えるのも受けます。結びは「何と書く」。四つ目そのものが洋字なので、洋字で書いて答えるのは洒落として筋が通ります。
正解としないもの:ようじ(仮名では先の答えと区別が付かない)/楊枝・幼児・用事(先の三つ)
★ 土産話 ── 楊枝屋の幼児の用事
西周の論をまとめた資料によると、洋字を推した利点の一つに、二十六字なので幼い子どもも読み書きできることが挙げられています。
洋字を説いた理由の一つが、先の辻の二つ目の話、小さな子だったのです。四つの「ようじ」は、明治の論の中でも一つところに寄っています。
さて ── 楊枝屋の幼児が、洋字で用事を書き付けたなら。
辻に立てば、耳には一つ。筆を執れば、三つにも四つにも分かれます。聞くのと書くのとで、言葉の数が変わる ── 今回の辻は、その境目に立っていました。
次の謎は、また改めて。