番頭、湯を沸かす
商家の店先にござる。暖簾はまだ懸かつたまま、日は高うござる。
番頭が一人、紙を目から離して眉を寄せてござる。主人の書置きにて、筆は達者。されど達者に過ぎて、仮名ばかりの続け字にござる。
読み取つた番頭は、土間で湯を沸かし、盥を据ゑて待ちはじめ申した。
さて、その支度は何のためにござるか。
御題
【作問修行】番頭、湯を沸かす
暖簾のかかるうち、主人の書置きにござる。筆は達者、字は続け字。
ひがくれたらひきやくがくる
番頭、盥に湯を汲み、客を待ちてござる。 されど、読み違へてござる。
正しく読めば、暮れ六つに来るは何者にござるか。
盥の三字を、分けてごらうじろ
番頭が盥と読み取つたは、たらひの三字にござる。
されどその三字、前の言葉と次の言葉とで分け合うてござる。
答えを見る
答へは 飛脚(ひきやく)にござる。
| 切れ目 | 読み | |
|---|---|---|
| 番頭 | ひがくれ/たらひ/きやく/がくる | 日が暮れ、盥、客が来る |
| 正 | ひがくれたら/ひきやく/がくる | 日が暮れたら、飛脚が来る |
同じ十三字にござる。切る所を違へただけにて、来る者が入れ替はつてござつた。
番頭は、答へを見てをり申した
面白きは、番頭の誤りの形にござる。
盥(たらひ)と客(きやく)── この二つを継げば、飛脚(ひきやく)になり申す。
番頭は答へを目に映しながら、真ん中で切つてしまうた。割れた破片を二つ拾ひ、片方を器と見、片方を人と見た ── ゆゑに湯を沸かし、盥を据ゑ、客を待つたのでござる。
絵の靄が二つであつたは、このゆゑにござる。
★ 解いた御仁への、二つの土産話
一、江戸の文には、句読点も分かち書きもござらぬ。
我らが今読む古文に点や丸が打たれてござるは、後世の校訂者が読み手のために入れたものにござる。版本の実物、手紙の実物には、点も丸も分かち書きも無い。普及は明治以降にござる。
すなはち 切れ目は、読む者が己で入れるものでござつた。
番頭が誤つたは、番頭が愚かであつたからではござらぬ。江戸の文が、さういふ物であつたゆゑにござる。──この一問の仕掛けそのものが、江戸の書きぶりの写しであつたわけにござる。
二、飛脚には、盥が要り申さぬ。
盥に湯を汲んで出すは、座敷へ上がる者に対しての作法にござる。
旅籠の記録に残るところでは、大戸をくぐつた客はまづ埃を払ひ、女中の汲む足すすぎの盥で足を洗うてから座敷へ上がり申した。寺子屋で読まれた『童子教』にも、手洗ひと足洗ひが対になつて出て参ります。当時「土足」と申せば、履物を履いたままではなく、泥で汚れた足のことにござつた。
ただし、これらは旅籠の例にござる。商家でも同じであつたかは、直の記録を見てをり申さぬ。
されど筋は変はり申さぬ ── 飛脚は、上がらぬ。
番頭は、上がりもせぬ者のために湯を沸かし、盥を据ゑて待つてゐたわけにござる。滑稽にして、少々あはれな光景ではござらぬか。
別解のこと
ひきやく・飛脚・飛客は、いづれも受け申す。捨て仮名を使はぬ表記〔ひきやく〕でお答への御仁も、当然に正解にござる。
客とお答への御仁 ── 惜しうござる。番頭と同じ所で切られてござる。答への後ろ半分を掴んでをられるゆゑ、あと二字にて届いてござつた。
盥もまた同じ ── 答への前半分にござる。
おまけ
翌る日、こんな問ひを添へてござる。
【おまけ謎】
こたびは番頭が書置きを残した。やはり仮名ばかり、やはり続け字。
のこりのすみをかためておきました かえりをおまちいたします
日の暮れ、主人が戻る。 「よき気の回しやう。返しの筆にも困るまい」 されど硯箱は、朝のままにござつた。
固めておいたは、何にござるか。
主人は、何を思ひ浮かべたか
主人は「返しの筆にも困るまい」と申されてござる。
すなはち主人の頭にあつたは、硯箱の中のものにござる。
されど硯箱は、朝のまま。
答えを見る
答へは 炭(すみ)にござる。炭団(たどん)も受け申す。
親の一問は切れ目が無いことの綾、こたびは字の別が無いことの綾にござる。
「すみ」とのみ書かれてござれば、墨とも炭とも読めまする。主人は墨と読み、番頭は炭を固めてござつた ── 冬に備へて炭の粉を固めておく、炭団の支度にござる。
違へられた側が、違へる側にまはる
親とおまけを並べて御覧じろ。
| 書いた者 | 読み違へた者 | |
|---|---|---|
| 親 | 主人 | 番頭 |
| おまけ | 番頭 | 主人 |
同じ家、同じ日、同じ続け字。違へられた番頭が、こたびは違へさせる側にまはつてござる。
主人が「よき気の回しやう」と褒めたその一言が、そのまま誤読の証しにござる。褒められた番頭は、さぞ怪訝な顔をしたことでござりませう。
別解のこと
隅とお答への御仁 ── これは惜しうござる。
「すみ」に二つの読みが重なつてゐると見抜かれた点で、関所は確かに越えてござる。残りの炭を隅に片づけておいた ── 筋も通つてござる。
ただ、炭と隅とを分ける語は、同時に墨をも分けてしまひ申す。「固める」を「片づける」と読み替へれば隅が立ちますが、その読み替へを口上で封じれば、墨と炭の綾まで一緒に潰れてござつた。ゆゑに隅の道は、開けたまま残してござる。
主人は続け字で書き、番頭は切れ目を違へた。翌日は番頭が仮名で書き、主人が字を違へた。
点も丸も無き文を、互ひに読み合うて暮らしてゐたのが江戸にござる。読み違へは、その暮らしに織り込み済みの綻びであつたのでござりませう。
盥の湯は、さぞ冷めたことでござりませう。
次なる謎、また改めて。
商家の店先です。暖簾はまだ懸かったまま、日は高い。
番頭が一人、紙を目から離して眉を寄せています。主人の書き置きですが、筆は達者。けれども達者に過ぎて、仮名ばかりの続け字です。
読み取った番頭は、土間で湯を沸かし、盥を据えて待ちはじめました。
さて、その支度は何のためでしょう。
御題
【作問修行】番頭、湯を沸かす
暖簾のかかるうち、主人の書き置きです。筆は達者、字は続け字。
ひがくれたらひきやくがくる
番頭は、盥に湯を汲み、客を待っています。 けれども、読み違えています。
正しく読めば、暮れ六つに来るのは何者でしょうか。
盥の三字を、分けてみてください
番頭が盥と読み取ったのは、たらひの三字です。
けれどもその三字、前の言葉と次の言葉とで分け合っています。
答えを見る
答えは 飛脚(ひきゃく)です。
| 切れ目 | 読み | |
|---|---|---|
| 番頭 | ひがくれ/たらひ/きやく/がくる | 日が暮れ、盥、客が来る |
| 正 | ひがくれたら/ひきやく/がくる | 日が暮れたら、飛脚が来る |
同じ十三字です。切る所を違えただけで、来る者が入れ替わっていました。
番頭は、答えを見ていた
面白いのは、番頭の誤りの形です。
盥(たらひ)と客(きやく)── この二つを継ぐと、飛脚(ひきゃく)になります。
番頭は答えを目に映しながら、真ん中で切ってしまったわけです。割れた破片を二つ拾い、片方を器と見、片方を人と見た ── だから湯を沸かし、盥を据え、客を待った。
絵の靄が二つだったのは、そのためです。
★ 解いた方への、二つの土産話
一、江戸の文には、句読点も分かち書きもありません。
私たちが今読む古文に点や丸が打たれているのは、後世の校訂者が読み手のために入れたものです。版本の実物、手紙の実物には、点も丸も分かち書きもありません。普及は明治以降です。
つまり 切れ目は、読む者が自分で入れるものでした。
番頭が誤ったのは、番頭が愚かだったからではありません。江戸の文が、そういう物だったからです。──この一問の仕掛けそのものが、江戸の書きぶりの写しだったわけです。
二、飛脚には、盥が要りません。
盥に湯を汲んで出すのは、座敷へ上がる者に対しての作法です。
旅籠の記録に残るところでは、大戸をくぐった客はまず埃を払い、女中の汲む足すすぎの盥で足を洗ってから座敷へ上がりました。寺子屋で読まれた『童子教』にも、手洗いと足洗いが対になって出てきます。当時「土足」といえば、履物を履いたままではなく、泥で汚れた足のことでした。
ただし、これらは旅籠の例です。商家でも同じだったかは、直接の記録を見ていません。
けれども筋は変わりません ── 飛脚は、上がらない。
番頭は、上がりもしない者のために湯を沸かし、盥を据えて待っていたわけです。滑稽で、少しあわれな光景ではありませんか。
別解について
ひきゃく・ひきやく・飛脚は、どれも正解とします。捨て仮名を使わない表記〔ひきやく〕でお答えの方も、当然に正解です。
客とお答えの方 ── 惜しいです。番頭と同じ所で切っておられます。答えの後ろ半分を掴んでおられるので、あと二字で届いていました。
盥もまた同じ ── 答えの前半分です。
おまけ
翌日、こんな問いを添えました。
【おまけ謎】
今度は番頭が書き置きを残しました。やはり仮名ばかり、やはり続け字。
のこりのすみをかためておきました かえりをおまちいたします
日の暮れ、主人が戻ります。 「よい気の回しよう。返しの筆にも困るまい」 けれども硯箱は、朝のままでした。
固めておいたのは、何でしょうか。
主人は、何を思い浮かべたか
主人は「返しの筆にも困るまい」と言っています。
つまり主人の頭にあったのは、硯箱の中のものです。
けれども硯箱は、朝のまま。
答えを見る
答えは 炭(すみ)です。炭団(たどん)も正解とします。
親の一問は切れ目が無いことの綾、今度は字の別が無いことの綾です。
「すみ」とだけ書かれていれば、墨とも炭とも読めます。主人は墨と読み、番頭は炭を固めていた ── 冬に備えて炭の粉を固めておく、炭団の支度です。
違えられた側が、違える側にまわる
親とおまけを並べてみてください。
| 書いた者 | 読み違えた者 | |
|---|---|---|
| 親 | 主人 | 番頭 |
| おまけ | 番頭 | 主人 |
同じ家、同じ日、同じ続け字。違えられた番頭が、今度は違えさせる側にまわっています。
主人が「よい気の回しよう」と褒めたその一言が、そのまま誤読の証拠です。褒められた番頭は、さぞ怪訝な顔をしたことでしょう。
別解について
隅とお答えの方 ── これは惜しいです。
「すみ」に二つの読みが重なっていると見抜かれた点で、関所は確かに越えています。残りの炭を隅に片づけておいた ── 筋も通っています。
ただ、炭と隅とを分ける言葉は、同時に墨をも分けてしまいます。「固める」を「片づける」と読み替えれば隅が立ちますが、その読み替えを問題文で封じると、墨と炭の綾まで一緒に潰れてしまう。そこで隅の道は、開けたまま残してあります。
主人は続け字で書き、番頭は切れ目を違えた。翌日は番頭が仮名で書き、主人が字を違えた。
点も丸も無い文を、互いに読み合って暮らしていたのが江戸です。読み違えは、その暮らしに織り込み済みのほころびだったのでしょう。
盥の湯は、さぞ冷めたことでしょう。
次の謎は、また改めて。